令和7年度 大学院工芸科学研究科 学位記授与式(秋季) 学長祝辞

 本日、修士あるいは博士の学位を取得されました皆さん、誠におめでとうございます。京都工芸繊維大学を代表し、心からお祝い申し上げます。そして皆さんをこれまで支えてこられたご家族の皆様、関係者の方々に対し、また、研究を指導された教員の方々に心からお祝いを申し上げるとともに、感謝の意を表します。

 今回の学位記授与者は修士が35名、博士が17名です。1988年の工芸科学研究科設置以来、本日分を含め13,594名の修士号と、1,199名の博士号を授与して参りました。皆さんは、工学修士、学術博士、工学博士になられました。

 大学院での研究活動は、学部での学びとは大きく異なるもので、実社会で皆さんが活躍される際に大いに役立つものです。大学院での学びについて、応用研究と基礎研究に大きく分け、仮説形成(abduction)という言葉を用いて、振り返ってみます。

 応用研究は、特定の応用や実用化を目指したもので、工学がその代表例です。工学の神髄は、自然の原理や法則などの前提と、役立つ事柄という結論を定め、前提と結論を結ぶ途中の具体的なものを実現することです。いろいろな実現の仕方があるなかで、実際に実現のプロセスを学んで体得していくことが大学院での学びでした。これは仮説形成(abduction)と呼ばれるもので、学部での学びの中心であった演繹(deduction)や帰納(induction)とは異なるものです。

 精密工学が専門で東大総長を務めた吉川弘之は、建築こそ仮説形成の典型であるとしています。作られた家や建築という前提があって、建築に要求される機能、例えば住みやすさが結論と考えます。施主がどのような住み方をしても、住みやすさという要求を満たすような家を具体的に建築家が作り出します。このときの思考の過程が仮説形成です。建築以外の分野の皆さんも、研究を進める中で、新しい事柄を生み出すときに、演繹でも帰納でもない思考を行った瞬間があると思います。

 基礎研究を進めた皆さんも、仮説形成を行っています。基礎研究は直接の応用を目的とせず、新たな知識や理論、現象の理解を深めることを目的としています。例えば、ニュートンが3つの運動の法則を見出した時に、2回の仮説形成があることが指摘されています。1回目は研究の対象を絞る時で、2回目は法則を確立する時です。

 研究の対象を絞ることが、まず重要な仮説形成です。ニュートンは、望遠鏡を発明するほど光について造詣が深く、また錬金術師でもありました。そのニュートンが、運動法則を考察する際に、対象から光や化学反応を除外したのは、今となっては大正解です。しかし、その除外は演繹や帰納で説明できません。また、それまでに無い「慣性の法則」「運動方程式」「作用反作用の法則」の3つの法則の導出がもう一つの仮説形成です。

 運動法則の導出は帰納的とする考えはあります。しかし、論理学者チャールズ?パースは帰納と仮説形成は違うものと次の様に説明しています。帰納は一組の事実からもう一組の類似の事実を推論する。一方、仮説形成はある種の事実から直接観察しえない別種の事実を推論する。例えば、ニュートンの3つの運動法則は、彼の時代では観察の対象でありえなかった事実の推論にも有効です。このことから、運動法則は帰納的に求めた単なる実験式でないのは明らかです。

 パースは、演繹や帰納とは別の科学的で論理的な思考の方式として仮説形成という論理を確立しました。彼は、仮説形成を「探求の論理学」と呼び、科学的発見や創造的思考において最も重要な思考としています。

 本学では、デザイン思考やアート思考の重要性をこれまで強調してきました。これらの思考は仮説形成のことを指していたと、私は考えています。本学で、建築分野の教員からこれらの思考の重要性が提唱されたのは、先に述べたように建築が仮説形成の典型であることから、当然といえます。また、本学の中心である価値創造を目指した工学、そして、知識の拡張、新たな知識の創造、科学的発見にとって仮説形成は必須の論理です。

 皆さんは、本学の大学院での研究活動の中で、何らかの形で演繹でも帰納でもない仮説形成について、その一端に触れました。ぜひ、この経験を活かし、実社会や博士後期課程で新たな価値の創造を進めてください。社会人博士コースの方は、これまでとは一味違った価値創造の一助として大学院での経験を活かしてください。本学大学院での学びをもとに、本学が理念に掲げる平和で豊かな社会システムの構築に貢献されることを祈念しています。

 本日は、誠におめでとうございます。みなさんの今後の一層のご活躍を祈って、お祝いの言葉といたします。

令和7年9月25日
京都工芸繊維大学長
吉本 昌広